186日目
こんばんは!本日は神殿当番つとめさせていただきました!ありがたい!
『疑えば疑いの理が回り、案ずれば案じの理が回るで』
少し刺さったので紹介させていただきました。
さて、本筋のお話は『喜ぶこと』です。このブログでは、僕自身が『たんのう』を目指して成人させていただき上から、喜びについて何度も投稿させていただいているかと思います。そんな中で、今思うことを話したいと思います。
『喜ぶ』とは、嬉しいと思う。そう言う気持ちを態度、動作に表す。良い事、望ましい事、めでたい事があって、心地よく感ずる。(Oxford language調べ)となっています。
しかし、天理教では周りの方々を喜ばせる事も同じように大切にされています。そう考えた時、自分が一人喜んでいる事は果たして正しい事なのか?と疑問になります。自分が喜んでいる姿を見て周りも喜んでくるという現象はあるのかもしれません。しかし、単に自分が嬉しいだけの事は周りの方々が喜べる事ばかりではないと思います。
『喜ぶ』を調べるともう一つ出てきます。それを嬉しい事だとして受け入れる(Oxford language調べ)です。天理教ではこちらがとても重要視されていると思います。
これが難しい。例えば、周りを立てる、つまり互い立て合い助け合いの精神で、自分自身が喜びにくい事であっても目の前の方や周りの方々が喜ばれるのなら自分の心は抑えて喜ばなければならない、という考えは正しいことになりますか?その時点で喜べてないじゃないかという言葉は置いておいて、周りの方々の笑顔の為には自分自身は作り笑顔で通るべきなのか?それが素晴らしい姿なのでしょうか?
たんのうを目指す上で、必ず通る道だと言われれば何も言えません。そもそも教理勉強不足である僕の見解自体間違っているのかもしれません。勿論、自分自身がその状況で心から人の笑顔や幸せを喜べている事が理想であるのは間違いないと思います。耐え忍んでその道を通れば、いつか心からたんのうして喜べるように成人させていただけるのでしょうか?
その為にはおたすけにかかるのが大事ですよね。おたすけ心が自分には根付いていない、だからこそ喜べない。心からその人に助かってもらいたいと思い行動したことなら、例え先程あげた状況であっても喜べるのでしょう。自分で言いながら論点がズレてきた気がします。
ちょっと吐き出したくなったのでこのような投稿になってしまいました。見苦しい文章、心遣いで申し訳ありません。見てくださっ方々、お付き合いいただきありがとうございました。成人させていただきます。
本日も1日ありがとうございました!