304日目
おはようございます!本日は御近所の剪定ひのきしんに行って参ります!雨でありがたい!☔️
つい先日、ハッとした事がありました。朝か夕方が忘れてしまいましたが、おつとめ後のてをどりまなびで合唱の手をした時に、ふと自分の手を見てハッとしました。
左手が手の甲側に反って、右手の平が曲がっていました。ほんの少しですが、それでも僕は驚きました😳
ここからは悟り方の話で伝わらない方もいらっしゃるかと思いますがご了承ください。
僕は御本部でつとめさせていただいていた時に柏手の打ち方を習ったことがあります。御本部のある准員先生に教わりました。
「合掌の手は左手が神様と捉えます。綺麗な音を出して柏手を打つ時には少し手をずらす方もいらっしゃると思います。なのでその時には、左手はずらさず右手を少し下げて柏手を打ちましょう」
という事でした。僕はこの教えを真面目に受け取って、今もずっと変わらず教わった柏手の打ち方をしております。ですが、学びの時の合掌の手は右手が左手に倒れていました。驚きました。
良い見方をすれば、神様にもたれきった素晴らしい形という見方もできなくもないですが僕はそうは受け取れませんでした。
「神様よりも自分を優先にしている。こうまんで勝手な心遣いをしている。」
そんな風に思いました。思い当たる節が出てくる出てくる。申し訳なさでいっぱいですぐ神様にお詫びして手を戻すよう意識しててをどりを続けました。
おてふりには癖性分を見せられるとはよく聞きますが、こうもはっきり現れるものなんですね😅反省しかありません。
本当に心が高く、自分勝手な心を反省いたしました。大きな気付きをありがとうございました。
本日も1日勇んで通らせていただきます!よろしくお願いいたします😁!
279日目
こんにちは!お久しぶりです🙇
先日のお話当番でさせていただいた話を投稿します。
テーマ
『人が喜ぶことを何か一つしてみよう』
人が喜ぶことをさせていただいた時によく起こるのが、『良かれと思ってしたのに相手を怒らせてしまった』という結果?です。
この時に大事だなと思うのが、1つは『相手が喜ぶだろうと思ってしたことがかえって不足させてしまうこともある』ということ。もう1つは『その時に、相手が喜ばなかったことを不足に思わない』ということ。最後にあげるのが最も大切だと思うのですが『相手が喜ばなかった事を自分に置き換えてみる』ということだと思います。
1つ目は言葉の通りなので説明を省きます。2つ目は、『その時に、相手が喜ばなかったことを不足に思わない』ですが、ここで「なんで〇〇してあげたのに怒られなあかんねん」ですとか、「素直じゃないなぁ、ありがとうくらい言えへんのか」とか思う心は違うと思います。しかし、僕らも人間なのでどうしてもそう思ってしまう時があります。それでも、喜びにかえることが大切です。「もっとこうしたら喜んでいただけたのかな」とか「あぁ、あの時の言葉や態度が良くなかったのかな」と思案させていただき、自分が喜べることが必ずしも相手が喜べることとは限らないとしっかり理解しなければ本当のおたすけにはならないのかもしれません。
勿論、そのたすけたいという真実の心は神様に受け取っていただけると思いますが。(そう思いたいです笑)
最後に挙げたのが『相手が喜ばなかった事を自分に置き換えてみる』ですが、『世界は鏡』とお教えいただきます。目の前の方の喜こべていない姿は、もしかしたら以前の、または前生の自分の姿なのかもしれません。現在の自分はそこで喜べるように成人できているのでしょうか。同じような態度を人に取ってしまっていないでしょうか。もしそうなら僕はすぐに神様にお詫びします。そして喜びに変えたいです。また同じことを繰り返してしまった時に、もっと早く神様にお詫びし、喜べるように。
教祖は
「日々は喜んだ通らしてもらうのやで」
「喜べないような日もあろう。喜びにかえて通らせてもらうのやで」
と、仰っています。
喜べない日もあろう、と仰る。ということは、人間なんだから喜べない日だってあるよと励ましてくださっているように感じます。そして、そんな日も喜びにかえてくれと仰っています。喜びに変える作業が大事なんだと思います。たとえその瞬間喜べなくても喜びに変える努力をするんです。
そうすると、次第に喜べる日や喜べる事が増えていくと思います。喜びに変わる瞬間が早く訪れるようになります。それが心の成人なのかなと思案させていただきます。他にもたくさんの成人へ向かう方法はあるかと思いますが、僕なりに思案させていただきました。
言葉が足りないところがたくさんあり、拙い文章かと思いますが皆様の広い心でお許しください😁
236日目
こんばんは!本日は神殿当番つとめさせていただいております!ありがたい!
おつとめについて考えを改めたところをお話ししたいと思います。
小さい頃、よく父母や周りにいるおじさんやおばさん等に聞かせていただいていたのは、
「朝夕のおつとめで神様に挨拶して、今日も1日よろしくお願いします、ありがとうございました、と言うんだよ」
という教えでした。
今の今まで何の疑問もなくその教えを実践し、朝夕のおつとめではそのような文言を神様に挨拶しておりました。しかし、最近になって少し疑問を持つようになりました。
今までの挨拶はそれはそれで良かったと思います。ただ自分の事だなと思いました。自らの埃を払い、心を掃除して、澄み切ってというのは素晴らしいおつとめだと思います。そこから周りの方々の事を含めた挨拶にできたらなと思いました。
例えば、
「おはようございます。本日も家族や目の届く範囲の方々その他………が1日笑顔で陽気に通れますようお願いいたします」
「こんばんは。本日も家族や目の届く範囲の方々その他………が1日身上事情等何事もなく通らせていただきました。ありがとうございました」
といった挨拶って良いなぁとふと思いました。やっとそのレベルかい!と思われた方は本当に素晴らしいお道の人ですね。大尊敬です。
何が正解かは分かりませんし、天の定規に当てたなら必ずどこかに隙間があるのだと思いますが、お願いづとめということではなく、常日頃の朝夕のおつとめから人のことを想い、人の為におつとめできたら素晴らしいなと思うんです。
年祭の旬で、色々と気付かせていただく事も多い中、色々な事を試してみて、心の成人に少しでも繋がるよう日々通らせていただきたいです。
本日も1日ありがとうございました!
232日目
こんばんは!本日は遥拝式をつとめさせていただきました!ありがたい!
僕って平凡なんですよ。唐突にすみません。平凡なんて言うと贅沢だと叱られる事もしばしばあるのですが、本当に平凡なんです。自分から見たらですが、何か特別秀でた能力があるわけでもなく、努力ができる人間でもない。環境に甘えてその平凡を受け入れているので、余計に自分が好きになれません。
努力できる方は素直に尊敬します。すごいなぁって思います。何かに熱中して、学んだり、それを仕事にしたり、そんな方も素晴らしいなぁと思います。僕はそういう熱さが人よりあまりありません。そう思っています。
こんな怠惰な僕を客観的な見た時、とても嫌いになります。が、もしかしたらこれは神様がお与えになったモノなのかもしれません。また怠ける口実を見つけたなとは言わないでください笑
僕は怠惰であると同時にこうまんでもあります。なので、仮に僕に何かしら特別秀でた能力があったとしたら、それはもう驕り高ぶっていた事でしょう。平凡な今ですら頭が高いのですから。目も当てられない。
逆に、怠惰であるのにも関わらずなんだかんだここまで生きてこれているのは素晴らしいと思います。そんな努力もしてなくて、それでも人並みには生きられている。この現実はありがたい現実だなと思います。
勿論、努力できるならすべきだし、した方がより成長できます。しなくても生きられるという事です。僕は周りにいる色々な方々に生かされています。支えられ、扶けられ、生かされています。こんなありがたいことはありません。
ありがたいことに気付かせていただいた良い1日でした。本日も1日ありがとうございました!
223日目
こんばんは!本日は日直つとめさせていただきました!ありがたい!
大変長い休憩をいただきました!これからまた休み休みやります!多くの声援をいただき久しぶりに投稿させていただきます!大教会青年のお話ブログのヘビーリーダーでスーパーマイノリティの皆様、ありがとうございます😊
まずは頭をぶつけた話。(またかい笑)
何度かブログの中でもお話ししましたが、考え事をしたりして神殿掃除をしていると必ず頭をぶつけるという内容の話なのですが、これが昇華いたしました✨✨✨
なんと今回、頭をぶつけた瞬間『あー、ありがたい』と思いました!(ドMなのかな笑)
と言いますのも、ぶつけた瞬間のコンマ何秒かで考え事してたからと思ってすぐさま、神様からメッセージいただけたありがたいと思ったんです😂これって、成長ですよね?笑 喜んで良いですよね?😆
少し前の話なのですが、全然喜べない日が続いていた時にある先生に相談いたしました。以下やり取りの内容です。
「喜べない時は教祖のひながたを思うべしでしようか?」
「うん、そうだね。でもね、喜べ無い時は、信仰から心が離れている時だから、教祖のひながたは響いて来ないよね。いくら心に思っても勇まない時は、しょーがない❗️と腹を括ってひながたを忘れて過ごすことをしてみて下さい。今後の話は少し時間を置いてから」
目から鱗でした。僕はいつの間にか『年祭は心の成人だ。だから喜べる心づくりを!』という思いから次第に『年祭なのだから喜ばなければいけない!』と、義務に変わっていたようです。
先生からの御言葉はまさに晴天の霹靂でした⚡️ひながたって忘れていいんや😳めちゃくちゃ心が軽くなりました😌さすが誠真実のお助け人は違うなと思い知りました。一言話はひのきしん、言葉一つで救われました。見習いたい🧐
そして、頭をぶつけた話に戻ります。自然と喜べたんです。僕は教祖のひながたを忘れる内に、なんでもありがたいと思えていた頃の様な心を少し取り戻していました🥲
そうするとどうでしょう。いくつもの御用が舞い込んできます。この1週間で、
「大教会長様が祭主をつとめる、ある分教会の前会長様御夫妻の十年祭に随行、進行とこ者を初めて任される」
「大教会の表に建ててある、大きな『感謝、慎み、たすけあい』の看板のデザインを頼まれる(デザインの指示有)」
「春季霊祭で御供えするパンの発注を頼まれる」
「成人門出祭の笙を頼まれる」
等々、他にも頼まれた御用があり、ありがたい事にここ2週間位で急に忙しくなってきました😌素直に喜べると御用が舞い込んでくるシステムなんですね😂笑 ありがたい忙しさです✨
勿論、色々重なっただけで偶々だと思いますが、喜べるようになってきた僕としては、神様から与えていただいた御用やなととてもありがたく楽しい毎日です😁
近況報告でした!本日も1日ありがとうございました!おやすみなさい😪
197日目
こんにちは!本日は月次祭準備させていただいております!ありがたい!
先日、大教会長様の全教会一斉巡教運転手兼おつとめお手伝いとして随行させていただきました。本当にありがたい御用で貴重な経験をさせていただきました。
前日からいつものように少しナイーブになっており、『道は間違えられない、おつとめもお手伝いの身で間違えては申し訳ない』等と考えていました。更に車は高級車。傷を付けようものならお詫びどころではないと少し気負いすぎておりました。
しかし、親神様、教祖、また大教会長様が僕のそんな心を察してか、高級車から普段よく乗られる普通乗用車に変わりました。当日の朝も、同じ大教会青年に『背負いすぎじゃないか』と励ましの言葉をいただき、『確かにそうかもなぁ』と少し心を軽くしていただきました。更に、その御用を知っている方からも『大活躍の1日』と、激励をいただき、すごく前向きな気持ちにしていただきました。周りの方々から沢山の心遣いをいただき、喜んで出発させていただくことができました。
教会についてからは、自然と時間が過ぎていき、大教会に帰る頃には心が弾み勇んでおりました。随行させていただき、沢山のことを教えていただき、おつとめも勇んでつとめさせていただけて、教会の皆さんに暖かくおもてなしいただき、感無量の1日でした。
大教会到着前に、大教会長様から労いのお飲み物も買っていただきました。1日本当に楽しかったです。ありがとうございました。
おつとめ中に何度か間違える場面もありましたが、その時にも焦ることなく『親神様、教祖に見守っていただいている。何の心配もいらない』と安心して喜んでつとめさせていただけて、改めて『やっぱりおつとめ好きやなぁ』と再認識できました。とても楽しかったです。
1日通して喜びづくめで本当にありがたい日になりました。皆様ありがとうございました!
190日目
こんばんは!本日は急遽代役で神殿当番つとめさせていただきました!ありがたい!
愛町初代関根豊松先生の御本を読ませていただいておりますと、この道を通る中でよく耳にするおさとし?がありました。それは、神一条で通れば、必要な時な必要なものが必ずお与えいただけるというお話でした。
色々な教会長の方々から聞かせていただくお話ですが、これは物もそうですが、御守護もそれに当たります。神一条であるからこそ思い通りの御守護をいただけるのです。
そんな言葉を改めて本を通して目にしましたが、ホンマにそんなことあるんかな?と思いながらお鏡を見つめておりました。その時に、そのお話とは関係なく無意識に『甘い物食べたいな』と思っておりました。
夕方に届きました。少し早めのバレンタイン。いや、僕は送っていただいている事すら知りませんでしたよ?こんな偶然もあるんやな位にしか受け取れていなかったのですが、本日の晩御飯ロールケーキ付いてきました。え、普段は絶対お菓子なんていただけませんよ?偶々いただけたのです。
御守護の話ちゃうんかい!と思われた方、申し訳ありません。しかし、僕としては半信半疑で思っていた事が確信に変わった瞬間だったので、ブログに載せることにしました。ホントに驚きました。まだ神様を疑うような心があったから分かりやすい形でお見せいただけたのかもしれません。
しかし、こんな事で徳を使ってはいけないのかなと思い、反省いたしました。おたすけの為に取っておかないと。教えていただきありがとうございます。
大したことのないお話に思えるかと思いますが、僕にとっては衝撃の体験でした。特に甘い物が好きなので。
本日も一日ありがとうございました!