大教会青年のお話

日々の出来事や、気付きを投稿していきます

188日目

 こんばんは!本日は別館で掃除機をかけさせていたました!ありがたい!

 

 

 

 最近、自分の心遣いと向き合う時間が増えました。真面目にというわけではなく、向き合わなくてはならない状況になっただけなのですが。

 

 

 というのも、八つのほこりにあげられる心遣いが強く表れるようになったので、向き合うしかない状況で、瞑想してるとかそんなことではないです。

 

 

 しかも1月の本部春季大祭辺りからだと思います。なので、年祭ってすげーな、三年千日ってすげーな、大教会ってすげーなと思っています。見せられているとしか思えない。ここで心の成人ができなければ意味がないですね。

 

 

 そんな時でしたが、本日の夕づとめの読み物「逸話篇」で『百七十一 宝の山』というお話を読ませていただきまして、心を軽くしていただきました。

 

 

 

 「大きな河に、橋杭のない橋がある。その橋を渡って行けば、宝の山に上ぼって、結構なものを頂くことが出来る。けれども、途中まで行くと、橋杭がないから揺れる。そのために、中途からかえるから、宝を頂けぬ。けれども、そこを一生懸命で、落ちないように渡って行くと、宝の山がある。山の頂上に上ぼれば、結構なものを頂けるが、途中でけわしい所があると、そこからかえるから、宝が頂けないのやで。」

 

 

 「橋杭がないから揺れる。そのため、中途からかえるから、宝を頂けぬ。(中略) 途中でけわしい所があると、そこからかえるから、宝が頂けないのやで。」とあるのですが、かえっちゃだめなんですね。当たり前と思われるかもしれませんが、自分の心遣いの程度の低さに辟易していたので、とても刺さりました。もういいや、と思って開き直りそうになっていたところに素晴らしいお話でした。

 

 

 向き合います。この三年千日、逃げずに自分の心と向き合い必ず心の成人をさせていただきます。少しでも成人した姿を親神様、教祖に見て喜んでいただけるように。

 

 

 たんのう

 

 

 本日も一日ありがとうございました!

186日目

 こんばんは!本日は神殿当番つとめさせていただきました!ありがたい!

 

 

 

 『疑えば疑いの理が回り、案ずれば案じの理が回るで』

 

 

 少し刺さったので紹介させていただきました。

 

 

 

 さて、本筋のお話は『喜ぶこと』です。このブログでは、僕自身が『たんのう』を目指して成人させていただき上から、喜びについて何度も投稿させていただいているかと思います。そんな中で、今思うことを話したいと思います。

 

 

 

 『喜ぶ』とは、嬉しいと思う。そう言う気持ちを態度、動作に表す。良い事、望ましい事、めでたい事があって、心地よく感ずる。(Oxford language調べ)となっています。

 

 

 しかし、天理教では周りの方々を喜ばせる事も同じように大切にされています。そう考えた時、自分が一人喜んでいる事は果たして正しい事なのか?と疑問になります。自分が喜んでいる姿を見て周りも喜んでくるという現象はあるのかもしれません。しかし、単に自分が嬉しいだけの事は周りの方々が喜べる事ばかりではないと思います。

 

 

 『喜ぶ』を調べるともう一つ出てきます。それを嬉しい事だとして受け入れる(Oxford language調べ)です。天理教ではこちらがとても重要視されていると思います。

 

 

 

 これが難しい。例えば、周りを立てる、つまり互い立て合い助け合いの精神で、自分自身が喜びにくい事であっても目の前の方や周りの方々が喜ばれるのなら自分の心は抑えて喜ばなければならない、という考えは正しいことになりますか?その時点で喜べてないじゃないかという言葉は置いておいて、周りの方々の笑顔の為には自分自身は作り笑顔で通るべきなのか?それが素晴らしい姿なのでしょうか?

 

 

 たんのうを目指す上で、必ず通る道だと言われれば何も言えません。そもそも教理勉強不足である僕の見解自体間違っているのかもしれません。勿論、自分自身がその状況で心から人の笑顔や幸せを喜べている事が理想であるのは間違いないと思います。耐え忍んでその道を通れば、いつか心からたんのうして喜べるように成人させていただけるのでしょうか?

 

 

 その為にはおたすけにかかるのが大事ですよね。おたすけ心が自分には根付いていない、だからこそ喜べない。心からその人に助かってもらいたいと思い行動したことなら、例え先程あげた状況であっても喜べるのでしょう。自分で言いながら論点がズレてきた気がします。

 

 

 

 ちょっと吐き出したくなったのでこのような投稿になってしまいました。見苦しい文章、心遣いで申し訳ありません。見てくださっ方々、お付き合いいただきありがとうございました。成人させていただきます。

 

 

 本日も1日ありがとうございました!

182日目

 こんばんは!本日は神殿の回廊掃除をさせていただきました!ありがたい!

 

 

 

 最近、喜べへんなぁというブログを投稿したかと思います。そして、青年会の活動方針『心を澄ます毎日を。』ということで、毎日心を澄ますための行動をしようと思いました。

 

 

 おつとめもそうですが、ひのきしんしなきゃなと。青年づとめをしているのですから至極当然のことなのですが。

 

 

 本日、回廊ひのきしんをさせていただきましたが、すごく心がスッキリしました!

 

 

 

 というのも、修養科生時に毎日のように回廊ひのきしんをしておりまして、『カイロリスト』の異名までいただき、なんならもう回廊に住んでいました。その頃の記憶も思い出しながら、懐かしんでの回廊ひのきしんなのでそれはもう楽しくて、原点に帰るとはこの事ですね。

 

 

 

 結局、僕のできることはそんなになくて、1人で色々と考えていても仕方がなく、やれることをやるしかないのです。今更何を言うてんねん、と思われるかもしれませんがそれほど喜べていなかったのだと思います。

 

 

 

 喜べなければまずおつとめ。そして、報恩感謝のひのきしん。この心を忘れずに日々通らせていただきます。

 

 

 本日も1日ありがとうございました!

179日目

 こんばんは!本日は何にもしておりません!ありがたい!

 

 

 

 ホントに何にもしてない。笑い事じゃなく、最近全く動く気になれない。五月病には早いですね。そして、全然たんのうしてなかったと思います。

 

 

 三年千日のスタートがこれで良いわけがありません。という無駄な正義感で自分の首を絞めているのかもしれません。三年千日という時旬をいただいても何もできない、何もしていない自分を責めて、それで心のバランスを取っているのでしょう。自分を責めていれば楽だから。なんと浅ましい。

 

 

 そんな憂鬱な日だった午後に大教会長様の末子と一緒に筋トレをしました。少し遊んだり。それだけなのですが、心が少し晴れていました。それだけです。なんの思案も申しませんが、なんだか心が晴れていました。子供って素晴らしい。

 

 

 夕づとめ後、若い住み込み青年さんの若奥さんに「字が綺麗」と褒めていただきました。日常の会話でよくある光景、たったそれだけのことなのですが心が軽くなりました。

 

 

 こんな簡単な事で救われる人がいる。そう気付かせていただいた気がします。

 

 

 青年会の活動方針『心を澄ます毎日を。』

 

 

 人を救けるには、まず自分の心が澄んでいなければ。改めて心を澄ますことから始めてみようと思います。本日も1日ありがとうございました!

178日目

 こんばんは!本日は日直をつとめさせていただきました!ありがたい!

 

 

 今日の夜の挨拶では「挑戦」についてお話しいただきました。中身は省きますが、当番の方は、「自身の変える挑戦」といった話をしてくださり、大教会長様からは「やらない後悔よりやる後悔」というお話をしていただきました。

 

 

 僕はやらない後悔よりやる後悔、と頭に置くようにしていて、大教会に伏せ込ませていただくこともその思いで決めました。そんな思いが最近は薄れてきていたように思います。

 

 

 

 色々な理由を取って付けて、〇〇だから今日はやめとこう、〇〇だからしょうがない等と自分に都合の良い日々を過ごしておりました。これはいずれ僕の嫌いな後悔が押し寄せてきますね。

 

 

 後悔しないように日々を過ごすことは意外とエネルギーがいるのだと思います。しかし、これを習慣化して当たり前のように過ごせるようになれば自ずと後悔しない日々を送れるようになることでしょう。更にはもっと広い可能性が見えてくるかもしれません。

 

 

 こう考えると、苦を見て先を楽しむ要素の一つは日々後悔しないように通らせていただくことが当てはまります。

 

 

 

 

 しかし、僕は時には休みます。怠惰ですから。笑

 

 

 

 本日も1日ありがとうございました!

177日目

 こんばんは!本日は講話の文字起こしをさせていただきました!ありがたい!

 

 

 夜の挨拶で、会長様から本部員先生にしていただいた話を聞かせていただきました。

 

 

 

 天に届く理の話で、トイレ掃除でも不足と思ったら不足として受け取る、結構と思ったらそれが天に届く理だという話があるが、例えばひのきしんを60分すると決めた時に、その内の1分でも不足をしたらそのひのきしんは不足として受け取られる。そう思ってひのきしんしなければならない。しかしそう考えると、24時間1年間でもそうと言える。それはなかなか難しいことだから、ひのきしんさせていただく間だけでも、不足はせずに報恩感謝の心でひのきしんさせていただこう。

 

 

 少し省略いたしましたがそのようなお話でした。

 

 

 ひのきしん中に不足しないことができていたかな?と、考えると穴があれば入りたくなる思いでした。お恥ずかしい。

 

 

 基本的には楽しいまま過ごしてひのきしんさせていただける時間ですが、一つも不足しないとなると、そこに敏感になりすぎて楽しめなくなったりしないかな〜と考えすぎる悪い癖。

 

 

 三年千日、これから年祭活動を歩ませていただく上で、とても大切な心の置き方だと感じました。

 

 

 

 本日も1日ありがとうございました!

176日目

 こんばんは!本日は山陽分会部属委員長練成会をつとめさせていただきました!ありがたい!

 

 

 先日の朝、起きた時に何気なく耳を触ると大量の耳垢が指に付きました。そんなことは今まで経験がなかったので驚きましたが、その日は簡単に耳掃除をして神殿掃除に行きました。

 

 

 話は変わりますが、本部青年会では基本方針として「心を澄ます毎日を。」と打ち出しがありました。親神様の思いが分かる心に成人させていただき、日々を教祖のひながたに沿って歩ませていただく。

 

 

 心を澄ますということで、早めに耳の身上について思案させていただきたく、いつもの如く深谷忠政先生の『身上さとし』を開きました。

 

 

 全ては載せきれないので、感じたところを抜粋いたします。

 

 

 聞きにくいことも前生いんねんとたんのうせよ。神意、ぢばの理を聞きわけよ。といったところが引っ掛かりました。

 

 

 最近、日頃の生活や自分が納得いかないことを耳にすると不足がちでした。前生いんねんとたんのうせよ、そう思案させていただくと反省すべきところが山ほどあったように思います。そして、そういった時に神意やぢばの理を聞きわけることを忘れておりました。

 

 

 僕は勉強が苦手ですので、読み取る力はあまりありません。ですから、この解釈の仕方が合っているのか分かりませんが、自分自身思うところがあったので、このように思案させていただきました。

 

 

 耳を塞ぎたくなるような事でも、神意を思い、たんのうして聞かせていただくことが今の自分には足りていない部分かと思います。

 

 

 

 不足は万病の元、たんのうは万病の薬。その心を忘れずに日々通らせていただきます。

 

 

 

 本日も1日ありがとうございました!